参道の杉並木は美しく、5月3日の山開きには両側に千本旗が立てられ、人々に敬われてきた信仰の山として歴史が、今も息づいている。
将門隠れ岩 (現地の案内板) 伝説悲劇の城峯物語(将門伝説) 関八州を平定し、その後下総の野に敗れ、この山に城を築き、名を幡武山石間城と名付け、それまで石間ヶ岳といっていたこの山に城ができると、里人も城峯山と呼ぶようになりました。 そこで下野田(栃木県)の豪族、藤原秀郷が兵を引き連れ、今の吉田小学校の高台に陣を張り、にらみ合いになる。 このころ、将門の愛妻、桔梗はときどき城を抜けて、いずれかに姿を消すのを知り、将門は桔梗が秀郷に内通したものと思い違い怒って桔梗を斬りすてました。無実の罪で斬られた桔梗の亡霊は落城後も消えず、秋の草花はかずかず咲くが、桔梗の花だけは今も見ることができません。 "秋の七草うすむらさきの花の桔梗がなぜ足りぬ 城峯昔の物語" (秩父小唄)
今を去る一千有余年前第六十一代朱雀天皇の御代平将門は叔父の国香を殺して下総の猿島館を構え平親王を名乗った。 これに対し朝廷側は藤原忠文を征夷大将軍に任命し下野の豪族藤原秀郷により将門討たせた。 戦に敗れた将門は一族と共に落ちのび関八州を一望に収めるこの城峯山に城を築きました。一方秀郷もまた将門を追って下吉田村に入り鶴ヶ窪城(現在吉田小学校)を築き、激しく攻めたてたが地に利に勝る将門はこれを一歩も寄せつけなかった。 ほとほと弱りはてた秀郷は或る日椋神社に賊徒平定の祈願をした。 その夜半鼠の大群が城峯山に押し寄せ、一夜の中に鎧兜の紐をはらはらに喰いちぎってしまった。 時を逃さず一挙に攻めたてて破った岩窟に隠れ再挙を図った将門、影武者七人と共についに捕らえた、秀郷は将門がいかに逃げのびたかに迷ったが将門の愛妾桔梗の前を捕らえて拷問したところ、ついに耐えられず自供するに食事の時髪の毛の著しく動く人が将門なりと、この時将門眠を怒らせ歯ぎしりして桔梗を睨み"桔梗あれども花咲くな"と言って果てたという。 万民上下の区別なく悠久理想の国造りを志し雄国空しく花と散った将門を惜しんで、今もなお人の葉の口から口へと語り伝えられております。 吉田観光協会 |